意志される秩序

真正な現象観の可能性

法としてのインターネットアーキテクチャ3: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

   

私達を制約する4つの規制

実世界とサイバー空間で共通の「規制」=制約条件は

  1. 社会の規範
  2. 市場
  3. アーキテクチャ

である。*1これらの制約条件は互いに依存しあっていたり打ち消し合ったりして、複雑な相互作用を及ぼし合いつつ、4つ合わさって「規制」として私達の生活を制約している。*2*3

法による間接的な規制の不透明性

法は私達の行動を直接的に制約しつつ、他の3つの制約の構造に介入することで私達の行動を間接的に制約する。

法律は二種類のとてもちがった形で機能している。直接機能しているときには、法律は個人にどうふるまえばいいかを告げ、そのふるまいから人が逸れたら、罰則で脅す。間接的に作用するとき、それは制約のほかの構造を変更しようとねらう。規制者は、こうしたさまざまな技術から、それぞれのリターンーーーその効率性と、それぞれが表現している価値観の両方の点でーーーに基づいて選択を行う。*4

間接的な制約それ自体は悪いものではない、しかし制約の間接性がもたらす不透明性は問題であるとレッシグはいう。

政府は間接的に、実空間の構造を利用して規制を行い、目的を果たそうとしているけれど、ここでもその規制は規制とはわからない。ここで政府は、政治的なコストなしに目的を果たす。明らかに非合法で非難の多い規制と同じ便益を得ておきながら、そんな規制があることさえ認めなくていい。*5

例えば、「物を盗んではならない」という制約条件は、法から直接的にもたらされる。

一方で「生産性を高める」「企業に貢献する」といった制約条件はどうだろうか?それらはどこからやってきたものだろうか?今日でこそそれらは社会規範として、そして市場原理に則った社会人として従うべきものとして認められている。しかしこれらの規制の元を辿れば、そのような規範意識=制約条件が安定化されるような構造を促した、現企業法の立法機関に辿り着く。そもそも立法機関が、特定の社会規範の安定化や市場原理の諸領域への広汎な適用といったことを意図して企業法の体系を作り上げたという事実が、私達が直面している制約条件の前提として存在する。

言い換えれば、私達の直面する制約条件の少なくとも一部は、法によって間接的にもたらされているものである。

間接的な規制は抵抗しづらい

にも関わらず私達はそのことを認識できていない場合がある。私達は企業法や立法機関に規制されているとは考えずに、社会とか、企業とか、市場とか、より身近で深く掘り下げやすい対象に規制されていると考える。

この場合、私達が当該制約条件の責任の所在として想定するのは社会・企業・市場であり、立法機関ではない。そしてそうである以上、非難の矛先となるのもそれらであって、立法機関ではない。

結果として私達の"規制への抵抗"は空を切りがちになる。法が変わらない限りは法が支配する空間の構造も変わらない。構造が変わらないから、既に構造に適応的であるような文化や風土は基本的には維持され続ける。私達を規制するものとしてそれらを対象化し、あーでもないこーでもないと喧々諤々の議論をしても、なかなか実のある変化を作り出すことは難しい。その理由は、それが私達を本当に規制しているものではないのかもしれないから、と考えることができる。*6

ここでの論点はともかく次のことだ: 法による規制を、その規制を媒体している機構に帰属させた場合、すなわち規制の間接性を規制の直接性として取り違えた場合、その規制への抵抗は奏功させづらい。なぜならその規制は本質的には法に帰属するのであって、媒体する機構に帰属するものではなく、そうである以上、媒体する機構に介入することによる改善の限界は、法が変わることによる改善の限界を必ず下回るからである。

結果として政府は、法による規制への抵抗が直接的になされることを回避しつつ、規制することにより得られる便益には与ることができる。しかも規制への抵抗≒非難の矛先となってくれるのは社会・企業・市場であり、政府はそれらを隠れ蓑として用いる。

様々な社会制度が複雑化すればするほど、法による規制の間接性は高まると言えるだろう。様々な制度を迂回した後にその影響が個人へと及ぶようにすることで、私達の"規制への抵抗"の矛先はますます実体を欠くものになっていきがちになる。

アーキテクチャやコードは、間接的な規制を実現するための格好の道具である

話が一般的になったところで再びコードとサイバー空間の話に戻る。

前回前々回の話と繋げると自然と出てくる発想だけれど、法による規制の影響は、様々なアプリケーションソフトを介しても私達に及びうる。

プログラムのコードは、それが表現する機能性を厳格に反復する。コードのこの性質は、アプリケーションやサービスのユーザーのふるまいを厳格に規制することに利用することが可能である、という点が重要だ。

*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.157

*2:同 p.158

*3:簡単に、YouTubeの動画投稿者に課された4つの制約条件を例示してみると:

  1. 法: 著作権や肖像権を侵害する動画をアップロードすると処罰される
  2. 社会規範: 公序良俗に反する規範的でない動画は、登録者の減少や低評価数の増加、批判的なコメントといった形で(社会的な)報いを受ける
  3. 市場: 再生数の伸びなそうな動画よりも、伸びそうな動画の作成に手間をかけるのが合理的である
  4. アーキテクチャ: アカウント登録をしないと動画をアップロードできない。サイズ上限を超えた動画はアップロードできない。規定再生時間を超えないと収益化できない。健全でないメディアはBAN対象となる。YouTubeの定めた動画評価・レコメンドアルゴリズムに従うしかない等

*4:同 p.170

*5:同 p.175

*6:......というのは決めつけが過ぎるかもしれない。というのも、規制が支配する空間の中とはいえ、創意工夫によって劇的な改善をもたらす突破口が発見される可能性を否定することは原理的には不可能だからだ。

法としてのインターネットアーキテクチャ2: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

 

プログラマーは、ネットユーザーに何が出来て何が出来ないかを決める能力=コードを扱っている

コードの構造と、そのコードが可能にする世界とのつながり。コードはサイバー空間をつくりあげる。空間は、人や集団に力を与え、奪う。したがってコードについての選択は、だれが、なにが、そして何よりも、どんな形の生活が力を与えられ、どんなものが力を与えられないのか、という選択でもあるのだ。 *1

私達が利用するWebサービスの機能は、コードを書くことによって実現されている。コードによって表現することの出来ない機能性はそもそもサービスとして実現せず、私達が利用できることもない。コードとは法だ(前回)。

ネットユーザーなら誰もが知っている通り、Webサービス毎にそれを利用するユーザーの特徴は異なっていて、自然に棲み分けがなされている。では、あるWebサービスに居座る人と離れていく人の違いはどこにあるのだろうか?

一般的に、ユーザーは自分にとって有効な機能性を行使する権利と能力を与えてくれるサービスを重用し、頻繁に利用するだろう。

ところで、ユーザーは、Webサービスの支配する空間の中においてのみ、サービスの提供する機能性を行使する事ができる。

更に、この機能性は、プログラマーがサービスを実現しているプログラムのコードを数行変えるだけで全く様変わりしたり、致命的なバグが生じて行使不可能になったりしうる。また、プログラマーがサービスの実装にあたり採用する技術が変更になったり、サービスの仕様が変わったりしていく中で、サービスの提供する機能群の構成は徐々に変化していく。

ユーザーはそのような、時に非本質的な、時に本質的なサービスの機能性の変化に対して、受動的であることしかできない: サービスの利用を辞めるのか、はたまたサービスが新たに提供する機能群に適応するようにして、自分が必要としている機能性を再定義するのか。

私達ネットユーザーがWebサービスの利用を危惧すべきだとすれば、後者の対応を取るようなことをまさに危惧すべきだ。つまりWebサービスの変遷に追随して自身の機能性を再定義することで、Webサービスを使っているのか、Webサービスに使われているのか区別がつかないような状態に陥ることを。

見方によってはそれは"最先端のWebの文化への柔軟な適応"として肯定的に捉えられなくもない。というか、今日のネットユーザーはほぼほぼそんな風に捉えるのかもしれない。ここで私は、Webサービスの機能性に適応的であるべきだとか、適応的でないべきだとか言うつもりはない。しかし、そもそもWebサービスの機能群というのは、ネットユーザーが抗えないような方向から、私達の本当の需要とは独立的かつ恣意的に変更可能であるということには注意を払うべきだと思う。

仮にWebサービスの機能が、私達ネットユーザーにとってわかりづらい形で不利益になるように変更されたとして、それがポッと出のサービスならただ利用中断すればいい。しかし既に利便性が広く評価され、社会の様々な意味での各種階層に深く根付いてしまっているサービス*2なら話は別で、そういう変更を泣く泣く受け容れることが現実的になりうる。

前回の話と絡めつつ話をまとめる。

あるサイバー空間においては、コントロールの主導権が各ネットユーザーにある: 私達ネットユーザーが自分の生活に必要な機能を提供してくれるWebサービスを自由かつ能動的に選択する。必要な機能を提供してくれなくなったサービスの利用は中断し、代替サービスを見つける。

警戒すべき種類のコントロール下に置かれているサイバー空間においては、コントロールの主導権はプログラマー、ひいてはそのプログラマーを統制する経済的・政治的機構にある: 私達ネットユーザーの目に触れ利用できるサービスはそういうコントロールを経て絞り込まれたものである。また当然ながら、それらのサービスの機能性は、そのコントローラー(統制性)が私達ネットユーザーに行使できることを許す機能性のみに限られている。

実際にそのようなコントロールがなされているか否かというのは精密な議論を必要とする問題だ。しかし確かなのは、プログラマーとその上部構造は、ネットユーザーに何が出来て何が出来ないのかを、コードを介して制御することが可能であるし、インセンティブが存在し法が許す限りはそれをしない方がむしろおかしいということである。

サイバー空間の機能性の変更への対抗手段とプログラマーの優位性

コードが持っている原理的可能性の全体像を漠然とでも理解していれば、話は少し変わってくるかもしれない。Webサービスが導入した機能変更の、コードに出来ること全体における位置づけから、その変更の妥当性や本質的意味を洞察することが可能になる。

 

*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.119

*2:それらのサービスは今日、"ユーザーに提供する利便性の向上"という名目で、ユーザーの個別情報を事細かに収集する。情報収集の機能と、実際にユーザーへの利便性の提供の機能とが複雑かつ密接に混じり合って構造化されているので、私達は機能性の行使と引き替えに個別情報を売り渡さざるを得ない。コードがそう書かれている以上それに抗うことは出来ない。

法としてのインターネットアーキテクチャ: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

アーキテクチャは法である

現状の世界では、コード作者はますます立法者となりつつある。かれらがインターネットのデフォルトがどうなるかを決定する。プライバシーが保護されるのか。どこまで匿名性が認められるのか。アクセスはどこまで保証されるのか。かれらがその性質を決める。いまはネットのコーディングが行われるしがらみの中で行われているかれらの決定が、ネットのなんたるかを定義する。*1

ネットが従っているアーキテクチャの種類と性質に課される制約は、私達がネット上で出来ることを決定づける。その意味でアーキテクチャは法である。

アーキテクチャの選択の一例として、暗号化技術を挙げる。ネット上では商業の発展に伴い、供給側と需要側がともに、認証機構を利用するインセンティブを増大させてきた。クレジットカード会社は最初、ネット上でクレジットカード番号が使われることをよく思わなかった。オンライン取引のセキュリティを信用できなかったからだ。それが今日では、クレジットカード認証は商業サイトの機能の一部として当たり前に組み込まれている。この間に何があったのだろうか?ーーーSSLプロトコルが開発・実装され、取引情報が暗号化されて安全にやり取りされるようになった。

私達がネット上でできることは、技術的に制約されている。プログラマーに出来ないことはネットユーザーにもできない。そしてプログラマーにも出来ないことがある: 企業勤めのプログラマーには、法的規制が許容(ないしは推奨)しないようなアーキテクチャの実装はできない*2。さて、三段論法だ。結果として、法的規制が許容(ないしは推奨)しないことは、私達ネットユーザーには何一つできない*3

前提として、ネット上のさまざまな機構のアーキテクチャは、政府にとって利便性を高めるようにも低めるようにも実装することができる*4

しかし、ネット上のアーキテクチャは純粋にその機能性や合理性や倫理性、効率性の素晴らしさによって選ばれるわけではない。もちろんそういった観点からの選択圧力は弱くはないにせよ、完全に支配的なわけでもない。

ここでかなり決定的な力を持つのは政府だ。政府は規制を介して、企業が政府にとって高い利便性を持つようなアーキテクチャを実装するよう促すことができる。その規制は、従った場合に企業の利益が増えるように(あるいは従わない場合に企業の利益が減るように)して施行される。例えば、より政府好みのアーキテクチャを実装・利用する企業には税制上の優遇をするとか、反対に、そうでないアーキテクチャの実装・利用には罰金を課すとかだ。

このような流れでアーキテクチャ自然淘汰が進む。一般に、政府にとっての利便性の追求に益するアーキテクチャは繁栄し、それに対立するようなアーキテクチャには強い淘汰圧が働く。

政府がアーキテクチャから得る利便性

では、政府にとっての利便性とはなんだろうか。

前掲書ではその例として、罰則の適用の容易さが挙げられている。ネット上で行われた犯罪行為に罰則を適用するには、それを行った人物の身元を突き止める必要がある。認証機構が実装され広く利用されたネット上では、それはより容易く実現可能になる。

一方で、身元同定が原理的に不可能であるようにネット全体を構築することも技術的に可能である。例えば、TCP/IPプロトコルはそれを利用するクライアントが誰であるかを利用していないので、通信の成立には個人情報が全く必要ない。身元同定が可能かどうかは、プロトコル・スタックに身元情報を扱うプロトコル(または機構)が追加されるか否かによる。

しかし今日のネット空間で、そういうネットを望むユーザーや企業は稀だろう。認証機構がもたらす利便性が双方から知られ、日常的にズブズブに頼っているからである。

他には、大量の効率的データ収集も政府に利するものだろう。統計量として集約できるようなあらゆるデータを政府が持ちたがるのは当然として、機械学習の精度向上に寄与するあらゆるデータ(説明変数の種類は多様に確保しておくに越したことはないだろう)(質的変数も含まれる)、将来的にその意味の大規模解析が可能となるようなあらゆる種類の仔細で現状使いみちの見いだせないデータも、政府が持ちたがらない理由が浮かばない。そのデータの解析を市場に移譲するかどうかはさておき、政府はデータ収集をするインセンティブを持つはずだ。結果として、データ収集をしやすくなるアーキテクチャが実装されやすくなるような規制を政府が施行する蓋然性は高い。

制約に自覚的なネットユーザー

ネット全体はまず政府の規制力に規定され、次に企業の経営能力に規定され、次にプログラマのコーディング能力に規定され、最後に私達個別ネットユーザーの能力に規定されている。"規定"は"制約"とも"統制"とも置き換えられる。

コードに出来ないことはネットユーザーにも出来ない。このあたりの話は記号論言語学や科学哲学などと共通性がある。私達の能力の可能性全体の限界をどうしようもなく定めているものが存在するということ。

インターネット(の全体または一部)にどのようなアーキテクチャを適用するかの選択は、上述のように、どのような規制が敷かれるかと密接な関係があり、更にそれは政治と関係がある。つまり私達ネットユーザーに出来ることを政治が左右してきたし、これからも左右できる。

この点に自覚的であるネットユーザーが多数を占めるか否かが、一方向的にインセンティブを押し付けられたことの帰結に甘んじるのではなく、自分達の理想とする空間の成り立ちや構造を守れるか否かを決めると考える。

もっとも、そういう動きの方向性すらも、ネット空間上の運動である以上はネットのアーキテクチャに規定されている。だから一度インターネットに取り入れられたアーキテクチャの影響は甚大なものになる。それはインターネット自身がどう進化していくのかを決定的に方向づける。

willorder.hatenablog.com

*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.107

*2:これは原理的可能性の話ではなくもっと現実的な可能性の話だ。まず、今日の成熟した資本主義社会において、金銭的なインセンティブを持たないプログラマーの影響力は無視してよいと個人的には思う(仮に多大な影響力を持つそういうプログラマーが現れたとしても、じきに金銭的な利害関係に包摂されることが目に見えている)。そして、金銭的なインセンティブを持つプログラマーにとって、法的規制に準拠したアーキテクチャを実装しない理由は存在しない(少なくともそのプログラマーが合理的であるならば)。仮に準拠しないアーキテクチャを実装したとしても、その経済的非合理性、そして規制に反しているという反社会性のレッテルゆえに実践空間から淘汰される可能性は高まる。

*3:仮に一時的にできたとしても、それが規制の罰するところであるなら直にできなくなる。更に強めて言うなら、それが規制が奨励していることでないならば直にできなくなる。

*4:前掲書で、そういう技術の例として電話回線が挙げられている。かつての電話回線は一極集中型のネットワークで、これは電話の犯罪利用が疑われた際に会話を盗聴するのに適したアーキテクチャだった。今では電話回線はインターネットアーキテクチャを取り入れ分散型ネットワークとなり、会話の盗聴は困難になった。

内向的思考と外向的思考の対照と、INTPが追求すべきもの

MBTIの心理機能のうち思考機能である内向的思考(以下 Ti)と外向的思考(以下 Te)の対照について、自分なりの考えをまとめておきたい。

内的整合性 vs 遂行性

TiとTeの違いは、秩序をもたらす場所に現れる: Tiは内的世界に、Teは外的世界に秩序をもたらすための機能である。どちらも思考機能であるので、その機能による構成物に論理性や客観性があるのは共通である。しかしTiとTeはそれぞれ内向性/外向性の機能であり、機能が向かう先は正反対である。

標語的に言えば、Teにとっての秩序は他者から見えるが、Tiにとっての秩序は他者から見えない。さらに言えば、Teのもたらす秩序は、外的世界(=私達の「世界」)のもとでその全体像を把握することが可能であるが、Tiによる秩序の全体像は、真にそれを構成・保守する本人によってしか把握されない。

Tiユーザーが論理的構成物ーーーつまり思考機能の産物ーーーを外界に向けて表現しないわけではない。しかしその構成物はあくまで、Tiの内的論理モデルと整合する構成部分の"現実的変換物"であり、Tiの追求する秩序を媒介し表現するものでこそあれ、Tiの追求する秩序そのものとは異なる。

一方で、Teユーザーが外界に向けて表現する構成物は、まさにその構成物が構成要素となる機能性全体、あるいは論理性全体、に奉仕し調和するものとなっている。

TiユーザーとTeユーザーは、外的秩序(=私達の世界で実効的であるような秩序の総体)に対する態度が異なるのである: Tiユーザーが気にしていることは、外的秩序が自身の持つ内的モデルと整合しているかどうかある(内的整合性の追求)。一方でTeユーザーが気にしていることは、外的秩序そのものがそのものとして、その時々で求められている機能性や論理性を有し、適当な基準を満たしているか否かである(これらをまとめて遂行性と呼びたい)。

もちろん、成熟した人格は主機能の種類に関わらずあらゆる心理機能を行使する傾向にあり、Tiユーザーとて外界の秩序を尊重できるのは言うまでもないことだ。しかしその場合でさえ、あくまでTiユーザーが最終的に秩序づけたいのは内的論理的モデルであり、そのモデルの整合性や一貫性が保たれている限りにおいて、外界にも興味が湧くのである。

今まで述べたことを言い換えると:

  • Tiユーザーにとって(外的)世界は実験場であり、内的モデルの構成が本番であり、そのモデルを洗練させることが目的。
  • Teユーザーにとっては(外的)世界こそが本番であり、思考機能によって遂行性を構成することが目的。

Teにとっての整合性と、Tiにとっての遂行性

Tiユーザーによる構成物がTeユーザーのそれに見えることも、その逆のことも起こりうるだろう。しかしその場合でも、それぞれの最終目標は変わっていないと思われる: Tiは内的整合性を、Teは遂行性をあくまで追求する。

Tiが遂行性を気にすることもあるが、Teがそうするのとは理由が異なる: Tiにとっての遂行性は、あくまでTiの内的モデルの整合性を検証するための媒介に過ぎないように思える。つまりその遂行性が、Tiの内的モデルの整合性を脅かすような性質を持っていたか、あるいは内的モデルがより洗練された体系性を有するものになるために新たに加えられる要素のいち候補に挙がっているか、だろう。

Teが整合性を気にすることもある。しかしそれはあくまで、整合性を検証することで、遂行性が高まると考えることが妥当な場合に限られる。一般に、遂行性を反復するーーーつまり時と状況を変えて再現するーーーために、遂行性に内在する整合性は便利な特徴ではあるが、それで全てが済むというものではない。整合的であっても遂行性は低いものはいくらでもあり、整合的でなくても遂行性が高いものもいくらでもある。一般に、遂行性の構成にあたり重要となってくるのは、抽象的原理によっては演繹されず、一般性の高い命題によっては包摂されないような諸要素の取捨選択と配置である。Teにとって整合性は、あれば望ましいもの以上のものにはなりにくい。

INTPにとってのTi

以上の考察のもとで、主機能としてTiを持つINTPの生き方について考えたい。

Done is better than perfect. という言葉はINTP界隈では合言葉として知られている。INTPなら人生のどこかで、実践することの重要性と、実践せずに思考をこねくり回すこととを天秤にかけたことがあるはずだ。そしてTiが主機能であることは基本的には、思考をこねくり回す方に比重が傾きがちであること、その代償として実践が疎かになることを含意する。

あくまで一般論であるが、残念ながら、Teユーザーにとって成長過程のINTPは、地に足がついていない、その割に何を考えているか定かではない、これといった取り柄のない人間に見える。INTPの最大の長所であるTiの構成物は内的モデルであり、外的遂行性ではない。それは他者には見えない。

INTPが内的モデルを外的構成物として変換し表現した場合、社会人としてのINTPがその可能性を花開かせるための最初の関門を突破したことになる。なぜ関門なのかといえば、この構成物の表現と伝達を担うのは、INTPの劣等機能である外向的感情(Fe)だからである。

劣等機能は人生の中盤から終盤にかけて発達するといわれている。INTPの場合にあてはめていうと、INTPがその最大の取り柄=内的モデル を外部に向けて十全に表現できるようになるのは、人生の中盤から終盤にかけてということなる。

しかし、何もFe機能が未熟なためだけに外部への伝達が遅れるわけではない。そもそもINTPが命がけで構成している内的モデルは、本質的に、社会からみて価値が低いものにならざるを得ないのである(もちろんこれも一般論であり、比較を経たうえの話、つまり相対的な記述に過ぎない、ということを断っておく)。

INTPは遂行性を疎かにするとはいえ、自分の表現物が社会からしてどんな価値や位置づけを持っているかくらいは理解している。INTPが人生序盤に自身の内的モデルを外部へ向けて表現しようとしない主な理由は、そのモデルが洗練途中にあること、そのモデルの表現物が社会にとり価値のないものであることを理解していること、そしてFeが劣等機能であることが、外部への表現のネックになっていること、とまとめられよう。

対照的に、Teユーザーが遂行性を追求する過程というのは、社会規範を達成すること、標準的な価値を実現すること、と実によく調和しうる。卓越したTeユーザーが社会規範に反し、標準的でない価値を実現しようとするとは考えにくい。なぜならそのような遂行性は、Teユーザーが身を置く環境と調和的でなく、調和的でない遂行性をTeユーザーは選ばないからである。Teは自分の外部に秩序を構成する機能である。調和的でない遂行性はそもそも構成が不可能であるか構成が限りなく不可能に近い。ゆえにその構成はTeユーザーに目指されない。

言ってしまえば、社会に必要な遂行性の構築はTeユーザーに任せておけばその大部分は済むのである。ただし、世界がなにも進歩せず、それゆえ必要な機能性の全体が不変なままである、という前提の下で。

INTPと規範性/標準性

遂行性の構築はTiの本分ではない。Tiユーザーは遂行性の構築を追求したところで、一般には、中途半端な成果しか挙げられないであろうことを心に留めておくべきかもしれない。それはTiの機能の本質的な部分に反している。

Tiユーザーは、自分が内的に構成した論理的モデルを介して世界を見る。このモデルの出来次第で、Tiユーザーは価値ある独創性を社会に提供できもすれば、唾棄すべき独断論者としてそっぽを向かれもする。

今まで述べたことからいって、Tiは基本的に標準性や規範性のために機能しない。ゆえに標準的であるがゆえの価値、規範的であるがゆえの価値の実現もTiユーザーの本分ではない。つまりTiユーザーは、世の中で今どんなものが流行っていて、どんなものが求められているのかを参照することはあっても、"その標準性のために"その流行りに乗ることは基本的にない。別の言い方をすれば、Tiユーザーは標準的な方法をとって、標準的な機能性を社会に提供することに価値をあまり見い出せない(その理由の一つとして考えられるのは、そうしたところで、内的モデルの進歩や検証には限定的な意味しかないからだ)。ただし、流行っていることとTiユーザーの内的モデルが部分的な適合をみた結果、流行りに乗ることはあるかもしれない。しかしその場合すらも、あくまでモデルとの適合性がその採用基準なのであって、標準性が顧みられているのではない。

これとは対照的に外向的思考(Te)は、まさに方法・機能性の標準性に着目する。標準的なものにはそうなった合理的な理由があり、平均以上の高い遂行性が期待できるからである。Teの利用に卓越したTeユーザーが何か機能性を実現させたい時、まず標準的な方法を採るのはごく自然なことである。

INTPの目指すべき道

ではTiユーザーが価値あるものを実現するために、どんな道があるのだろうか。

進化論的な観点から言っても、Tiユーザーの本分は探索であり独自性の追求にある。そこで規範性や標準性がたまたま満たされる分にはよいが、基本的に、Tiユーザーは規範性とは縁遠い。また、縁遠い位置を保ってこそともいえる。

標準的でも規範的でもない内的モデルをなぜわざわざ保持するのだろうか?それは外界とは一線を引いて接し、外界に差異をもたらす準備をするためである。「外界へ赴き外界と調和し、外界に機能性を構築することが人間の為すべきことの全てであり、それで何もかも事足りる」とすれば、Teユーザーだけが選別され、Tiユーザーは淘汰されるはずだった。しかし今の所、Tiユーザーも一定の割合で生存している。Tiユーザーは意味なく生み落とされ意味なく生きている訳ではない。

TiユーザーはTeユーザーを模倣することではなく、補完することを志さなければいけない。

Teユーザーの長所である遂行性は、社会のあらゆる場所、あらゆる場面で求められる。未成熟なTeユーザーは、遂行性こそが全てであるという態度をとる(ちょうど、未成熟なTiユーザーが、内的整合性こそが全てであるという態度をとるように)。何が言いたいのかというと、今日の社会情勢は、Tiユーザーに、Teユーザーを模倣するようけしかけてくるということである。様々な条件が複雑に絡み合った結果、そういう傾向性が発現している。

Tiユーザー、そしてTiが主機能であるINTPは、この圧力の中でも独自性を養い、内的モデルを洗練させる必要がある。

その過程で規範性や標準性を様々な用途のために参照してもよいが、規範性と標準性がTeユーザーの本分であるということを忘れてはならない。

こうまとめると鮮烈でいいかもしれない: Tiユーザーの本分そして役割は、規範性の拡張と刷新にある。基本的にTeユーザーの遂行性は非のうちどころがないものだが、一点、その遂行性の成立の前提が硬直的であること(なぜなら規範性はそう簡単には変化しないから)は欠点であり、その欠点は持っていないTiユーザーは、Teユーザーが遂行性の構築にあたり課されている制約の一部(あるいは全部!)を無視した上で、新規な遂行性や規範性の可能性を探索できるのである。これこそ全Tiユーザーが意識的に追求すべきものであり、Tiユーザーの主要な存在意義である。

INTPはTiを主機能として持つから、より強く、このことが当てはまると考えられる。

INTPは自身が持つモデルの存在意義を、最終的には外部へ差し向ける必要性に迫られる。その必要性の度合は、Feの発達と度合いと並行関係にあるだろう。

注意

  • 2つの思考機能の対照について考えていたので、それ以外の心理機能に関する考察がすっぽり抜け落ちている。そのため議論として、以上の論理展開は片落ちどころか、6/8落ちである。今後精緻化していく所存だ。
  • 内的モデルを構築することと、規範性から目を背けることはイコールではない。それらを両立するTiユーザーもいる。しかしそれはどちらかといえばTiユーザーの成熟後の姿であって、Tiユーザーはまず得意な方、すなわち内的モデル、の方に専念することを私はお勧めしたい。それはMBTIの理論が示す道筋でもある。
  • 判断機能としては思考と双璧をなす感情について、基本的には、ここで述べたような論理の流れが思考と同様に適用できると考える。その機能性の本質が判断である点で思考と同じだから。例えば次のように: 外向的感情(Fe)が達成するのは円滑な関係性であるのに対し、内向的感情(Fi)が達成するのは、感情の全次元の探索であり、最終的には、そのうちの一つあるいは複合的な次元の感情が外的に表現される。

7 Signs Your Abstract Thinking Is Highly Developed (and How to Further Advance It)


www.learning-mind.com

抽象的思考とは実際に対面して存在しているわけではない物事について考える能力のことです.抽象的に思考する人は,具体的な詳細よりもアイデアと情報のより広汎な重要性を見ています.

抽象的思考者(abstract thinker)は物事のより深遠な意味とより大きな全体像(big picture)に興味を抱きます.あなたは平均以上の抽象的思考者でしょうか?

抽象的思考とは何か?

抽象的思考を説明する最も簡単な方法はおそらく,それをその対極ーーー具体的推論ーーーと比較することでしょう.具体的思考者(concrete thinker)は今まさに存在していることにより快適さを感じます.彼/女らは,明確で触れることができて手に取ることができるものを好みます.具体的思考者は指示に従い,詳細な計画を持つことを好みます.彼らは明確でなかったり曖昧であったりすることを嫌います.彼らは普通「行間を読む」ことはしません.

具体的思考者はリストやスプレッドシートを好みますが, 彼/女らは必ずしも自発的であることや「流れに沿う」ことに秀でてはいません.

反対に,抽象的思考者はすべてのことが全体像にどう関係しているのかを考えます.彼/女らはより深い意味や物事に通底しているパターンを常に探求しています.すべての物事が他のすべての物事にどのように関係しているのかを理解したいのです.

彼/女らは好奇心旺盛であり,複雑なアイデアと戯れることが大好きです.彼/女らは天体物理学や詩のようなさまざまな主題を含む、高度な抽象的思考を用いる主題を楽しむことができます.

抽象的思考は象徴的思考と密接に関係しています.私達の社会や文化の大部分はアイデアを表現するために象徴を用いることに頼っています. たとえば,自由の女神は単なる像ではなく,自由の象徴です.言語それ自体ですら,物体,アイデア,感情の象徴としての言葉という意味で抽象的なのです.

私達の抽象的/具体的思考

もちろん,私達のほとんどは,時と場合に応じて具体的推論と抽象的推論を織り交ぜて使っています. どちらか片方の思考方式だけで人生を貫徹させられる人はいません.誰しも未来の計画を立てたり,複雑なアイデアを理解したり,車を駐車するためには抽象的思考を用いる必要があります.また,牛乳が必要かどうかといったより実践的なタスクを遂行するためには具体的思考を用いなければなりません.

しかし,ほとんどの人にとって,どちらか片方の思考方式が支配的なのです. これはその人がどちらの思考方式がより使うのに快適なのかということである一方で,その反対の思考方式を用いることに苦戦するということでもあります.

誰しも時々抽象的に思考します.あなたは子供時代に,指を使って数を数えたでしょう.数とは何であれ思考の対象の総量であるという抽象的な概念を理解した今,あなたはもう指を使う必要がありません.

ここまで述べてきたように,この種の思考をより容易に行う人達がいます.これらの方式には,彼/女らの支配的な思考戦略の抽象があるのです.

抽象的思考者であることの7つのサイン

1.「人生の意味とは何か?」「意識の性質とは何か?」といった大きな問いについてよく考える

2. 常に疑問を持ち,なぜそうなっているのかを尋ねる.子供の頃,ひっきりなしに質問することで他人に変に思われていたかもしれない

3.それをする良い理由がわからない限り何かをすることは望まない; 「ただ〜だから」では動かない

4.ステップバイステップの指示に従うことが嫌いで,自分自身で物事を進めることが多い

5.ルーティンが嫌いで,繰り返し同じタスクをこなす必要があるとすぐに退屈してしまう

6.なにか新しいことについて考えるときに,しばしばすでに知っていることにそれを結びつける.たとえそれが一見無関係なアイデアに見えても.

7.比喩やアナロジーを思いついたり,アイデア同士を新しい仕方で結びつけることが得意である

抽象的思考の鍛え方

ビジネスや大学においてはしばしばこの考え方が問われるので,もしあなたにとって抽象的思考が自然なものでないのなら,それを磨き上げておくのが賢明でしょう.

抽象的思考を鍛えたければ,その練習のための本があります.数学の能力を高めること は抽象的思考を助けます.数学は抽象的な思考の方法だからです.統計データの中に法則性を見つけようとすることによってこの領域の能力を高められるでしょう.

具体的な方法によって理解することのできない主題について学ぶことは抽象的思考を高めるもう一つの方法です.量子力学や天体物理学といった主題は,抽象的に考えることを私達に要求します.

比喩やアナロジーを用いる能力を鍛えること も抽象的思考の発達を助けます.詩を読んだり書いたりすることから始めるのは良いことです.現代美術のギャラリーを訪ねれば,より象徴的な考え方を鍛えることもできます.

要するに,バランスの良い思考のスキルを身につけることで,あらゆる場面に対応できるようになるので,このスキルには鍛える価値があるのです.

INTPの内的緊張: TiとNeの相互作用

INTPに関して私が認識してきたことを書き連ねたいと思います.

前置きをしておくと私はいわゆる未統合なINTPであり,それゆえINTPに関する認識も未だ浅薄なものにとどまっている感が否めません.しかしだからこそ,人生の不整合,不調和,不全感に苛まれる私と同程度の発達段階にあるINTPに,人生を打開し,INTPの愛する知的没頭の時間を質量ともにより豊かなものにするための観点を提示・共有できるという面もあるのではないかと思ってのことです.

ここで「未統合な」という概念はあらゆるMBTIパーソナリティタイプに適用できます.各タイプは8つある機能のうちの4つの機能の"ヘビーユーザー"です.そして各タイプは,その4つの機能を統合的に使うことに習熟していくことで人間として成熟する,というのがMBTIタイプダイナミクスの基本的な考え方だったはずです.

さて,未統合なINTPにはどんな問題が生じるのでしょうか.それは他の全てのMBTIパーソナリティタイプと同様,多岐に渡ります.一連の記事で書いていくのは要するに,INTPが発達過程において直面する問題です.

内的緊張: TPの相互作用

自分の内で作用している思考機能がよりよい考えを打ち出そうと分析的な結論づけに駆り立てられているのにもかかわらず,知覚的態度が,状況に対してオープンであれ,と判断を保留し,もうすこし情報収集をしようと引っ張る.『MBTIへのいざない』R.R.ペアマン&S.C.アルブリットン

INTPの主機能である内向的思考 Ti と第2機能である外向的直観 Ne とはうまく協調するときもあれば,心理的エネルギーを競合する関係に陥ることもあります:

それらが健全な協調関係にあるとき,Tiが収束的真実に向かっていく一方で,Neはその真理の反証可能性または精緻化可能性を探索します.この協調関係がINTPを収束的真実へと少しずつ歩ませていくわけです.

Tiが生成した「真理」は,外向的直観によって知覚・収集された情報に適合するかどうかのチェックテストに繰り返しかけられます.特定のチェックテストをパスした「真理」は暫定的には「真理」であるにせよ,その反証可能性はつねに見込まれたまま残ります(これがINTPが"絶対的相対主義者"たる理由のひとつです).それが真理であることの確証を求めてNeによる情報探索は半永久的に反復されます.

あるいは逆に,Neによって収集された情報がTiによって統合され,真理の候補として保持されます.

INTPの携わる真理はえてして抽象的です.この抽象性は,INTPが外向的直観を介して情報を知覚しているがゆえの必然でしょう.Ne と対をなす機能は外向的感覚 Se ですが,Seは物事の細部に着目する機能なのに対して,Neは物事の全体像や各刺激の意味を捉えます.Seユーザーとの対比でいえば,INTP(やその他Neユーザー)は「漠然とした印象世界」を生きているといえます.

INTPの日々の生活で出会うさまざまな感覚刺激は,その具体性において捉えられることはほとんどありません.INTPが気にかけるのは典型的にはそれらの意味,成り立ち,起源,文化的/社会的文脈(=象徴性),抽象的構造,記号的連想,そして関連するすべての分析的概念です.INTP(≒Neユーザー)にとって重要なのは個々の刺激それ自体ではなく,そこから何を抽出(≒知覚)できるかーーーしかも論理性や首尾一貫性を伴ってーーーです.

更に極端な状況においては,INTPは受容する感覚刺激とは全く独立に思索を展開します.これは主機能Tiの内向性ゆえです.例えばINTPが朝にカーテンを開け眩しい日差しに目を細めていたとして,INTPの意識が太陽の輝かしさ,鳥のさえずり,清澄な空気,眠りから覚めてリフレッシュされた身体に向いているとは限りません.

物語性を把握すること,連想することに長けるのは直観機能です.一方で感覚刺激を感覚刺激それ自体として取り込むこと,そして感覚世界の豊かさの広がりにより自由にアクセスできるのは感覚機能の利点であり本分です.それゆえNeユーザの世界認識は,Seユーザに比べてはるかに,刺激の主観的意味付けに左右されやすくなるとともに,感覚刺激それ自体の多様性や楽しさは軽視され捨象される傾向があるでしょう.

MBTIのタイプ判定テストでは大抵,(その妥当性は疑わしいにせよ)各機能の「強弱」も判定されます.Neの優位性が高まれば高まるほど,外的な感覚刺激そのものは"放っておかれ"ます.

Neによって収集された情報はその抽象性ゆえ,広汎な具体的概念を包括するものです.扱う概念の抽象性ーーーこれがINTPに徹底した,長時間に渡る,そして繰り返し論理的かつ批判的に検証される情報収集を要求するものの正体ではないでしょうか: 抽象的概念に関する真理の反証は,具体的概念のそれよりはるかに手間がかかり,複雑で,生半可な注力ではほとんどなにも進展しない程度には困難です.要するにINTPは,その反証可能性をさらい尽くしより洗練された真理へとそれを高めていくためにはほとんど無限の探索=情報収集が必要となるような真理を探し求めているのです.

INTPの徹底性やオープンさが悪く出た場合,NeはTiの導き出した「暫定的真理」に執拗な疑義をかけるようにして機能します.INTPにとって「真理」の真理性を高めることは何にもまして重要なことですが,その徹底性にあまりにも高い優先度を設定すると,Tiの導き出したあらゆる結論はもはや現実に何も働きかけることのない机上の空論へと実質的に成り下がります.というのも,INTPは「真理だけが実践に適用されるべきだ」との考えに高い親和性を示すからです.

INTPは真理に基づいた実践という(しばしば空想的な)理想を追い求めて追い求めて,現実に帰ってこれなくなるかもしれません.そこまでいかずとも,INTPのこの「真理への潔癖さ」は完璧主義 perfectionism や先延ばし癖 procrastination,そしてそれらから派生する鬱や不安といった形で,生活に実害をもたらします.

かくしてINTPは,生活を送っていくための判断を下すために,自身のオープンさを縮減し,どこかで「暫定的真理」を(しぶしぶ!)受け入れる必要性に迫られます.真理の従者であるINTPにとってそれはとても辛く苦しい現実であり,この辛さから逃げたいがためにNeによる探索ーーー判断を保留できる"宙ぶらりん"な状態ーーーの中で,まだ見ぬ可能性,未知と戯れ,より堅固で強力な,実践への適用に耐えうる「真理」に到達するイメージを膨らませます.INTPのオープンさは,悪く言えば放埒さ,規律性のなさです.

とにかく,INTPが知覚機能=Neを用いるのは,自身の「真理」の真理性を徹底的に高め,反証の余地を失くすないしは反証可能性の少なさが許容水準を満たすようにし,自らの内的論理的世界を高度に調和させることに固執したときです.そのときINTPは内的ではなく,外的な情報収集を必要とします.なぜならINTPはその知的誠実さゆえに自身の存在の矮小さを熟知しており,そうであればこそ,自身の「暫定的真理」を反証するか精緻化するような事象が,外界に豊富に存在していると考えるからです.

TiとNeの緊張関係はINTPの悩ましいジレンマそのものです: 考えてばかりいては真理が高まらない(反証可能性の減少を確信できない).しかし探索してばかりいては真理が結晶しない.

INTPの思考の徹底性や客観性はこの内的緊張によってもたらされると言えそうです.

 

INTPの不安と鬱

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INTPは鬱や不安により陥りやすいのだろうか?

INTPは他者の心と頭をかき乱すことがある.それは楽しみのためにやっているのではなく,感情的な質問へのINTPの返答が,十全に感じ入ることなしに即座に表現されるために,相手にとってはその答えがきわめて困惑させるような,button-pushingなものとなりうるからである.

劣等機能が感情的な暴動 riot を起こす

INTPの劣等機能は外向的感情Feであり,INTPの影の劣等機能は内向的感情Fiである.それなので,INTPが感情的な返答を求められると,自分自身を感情的に徹底的に批判し・こき下ろし・自らを断片へと引き裂い tear themselves to shreds て,相手にそれを投影する.INTPはINTPの内的な感情の情景の偽装と上書きへの試みで忙しかったり,それらが存在しないかのようにさえ振る舞う一方で,実際には内的不調和が次第に積み重なっていっている.そして不調和はINTPが愛しながらも憎むものである.これは矛盾している: INTPはつねに物事が調和的な秩序に収められることを目指している.

ここまでで予測できることは,INTPはFeを統合させようとしない限り,感情的な地獄への負の循環に直面する傾向にあることである.INTPの人生にとって感情的統合はとても重要である.INTPの感情に触れようとしない限り,INTPの主要機能である内向的思考TiはINTPの最良の資産にならないばかりではなく,最大の敵となりうる.

考え過ぎが鬱と不安を悪化させる

ストレス下では,影の主要機能である外向的思考Teがはっきり姿を表し manifest ,INTPは外部の生活を強迫的かつ衝動的なマナーで並び替えることに大忙しで manically (やみくもに)動き回る run around.これらの自分を慰めるための self-soothing 外的な試みは,INTPの奥深くにある未解決の感情的な問題の未開の大洋 wild ocean の,単なる取り繕い・隠蔽 just cover up に過ぎない可能性がある.

INTPは増大された失敗への恐怖をもっており,美しく複雑で,細心に注意を払って設計された哲学・理論を大切に心に抱いている.それらのアイデアをつねに修正・改善していくことに喜びを感じる一方で,INTPが共に生きてきた自身の一つまたはそれ以上の論理システムが虚偽や目に余る gross 誤算の上に築かれてきていたことに気づいたとき,そのアイデアに接触するINTPの人生の全部分は突如として議論に値しない moot ,全く意味のないものになり,INTPに絶望的で実存的な亀裂 chasm をもたらす.そこから抜け出す唯一の方法は,人生の意味の構造を根本から構築し直すことであり,以前なされていたよりいっそう鋭い批判で人生のあらゆる側面を評価することである.これは,一般的な真実の妥当性と,不安,絶望,失望,そして自殺憂鬱という感情をもたらすものがあるかどうかを問うことで補完することができる.薬物と放蕩による逃避は,時間の経過とともにこの隙間を埋めるかもしれない.通常,ベンダー(=大酒飲み bender)の反対側から不安を生み出すのに十分な長さであり,人生の堅固な目標や目的を探しながら統合するためのより深い危機を伴う(訳注: 放蕩によって時間を無為に過ごしている間に,現実(=ベンダーの反対側)が取り返しの付かないところまで崩壊しうる,という意味か). INTPは新規性と知識を求めて伝統的な障壁を打破しようと努力している.そして境界溶解薬の使用はある程度までこの開放的なユートピアを提供することができる.

影の補助機能 Shadow Auxiliary Function のリスキーな強迫観念

INTPはストレス下で内向的直観Niを使用する.Niは象徴主義に取り憑かれ(夢中になり),知覚された外部の象徴や共時性がINTPの内面の道徳的あるいは精神的な羅針盤を導いていることに真実の刀を持つ.社会構造や人間関係にどのようなコストがかかりそうであっても,これらの内的イメージと理想は,それを実現し明示するためのあらゆる手段によって外的世界において調和される.

関係性への不安と無関心

人間関係において,INTPはINTP自身およびINTPのパートナーの感情的なニーズを度々無視する.その際,INTPはいくらかの余分な処理時間を必要とし,INTPの劣等機能であるFeの困難さと直面する.Feはこのとき役に立つのである.INTPの感情的な反応は感情を深く探求したり接触したりすることに基づくものではない傾向があり,感情的な会話へのINTPの入力を取り巻く不安が他の人の目には不十分であるかもしれない(訳注: 人間関係においては,「相手の感情を害することに対する適切な不安」が必要.INTPはそういう不安が不足する傾向にある,ということか).INTPは複雑性を愛し感情的な自律性に価値を置いているが,ここでの選択肢はほとんどない; 統合されていない感情的な状態を,論理と根本原理 rationale の陰になる hidden behind 異なる関係性へと導く(関係の基礎として普遍的または実存的真理を支持することもある)か,全ての関係性を終えて内的な感情の混乱が表出しないように保護するか,または劣等機能であるFeの統合を学び実践するかである.繰り返すが,諸々の感情が外部へと表現されていないとき,それらは内部で深まり互いに絡みあい,ストイックな論理によってしばしば取り違えられたり confused 覆われたりする.壁を高く築き上げるので,それ(訳注: =stoic logic)がクラッシュした場合には,不可避的にみんなを傷つける.しかも統合されていないINTPはそのことを気にしない.

世界が地獄に向かっていることは明らかではないか?

一部のINTPは,戦争,飢饉,人口爆発,公害など,世界の危機を無視することは他者の無知さであると推論して,「心配しないで大丈夫だ」と言う者達に対しては気が短くなる.INTPからすればこれらの人々は自分に嘘をついているだけだが,他の観点からすればそのことは,INTPは他の人々の見解をあまり受け入れないということかもしれない.非常に統合されていない劣った機能(認識機能とシャドー機能)を持つINTPでは,すべてを意味あるものとして説明するために全てを考え過ぎ合理化することと補助機能である外向的直観Neとが組み合わさって,無関心・無気力と運命 apathy and doom の悪循環を生じさせるかもしれない.これは就寝時に,存在感の欠如からくる鬱病や不安から生じる純粋な枯渇といった,さまざまな事態をもたらしうる.

要約すると,INTPはINTPの感情にアクセスし表現するさまざまな困難に遭遇する.不安と鬱は感情的なストレスの状態の究極的な偏りであり,対処しないままでおくと,人々や世界からの不健康な断絶,自尊心の欠如,自殺念慮,絶望感,ニヒリズムにつながる可能性がある.感情やフィーリングの恐怖と向き合わない限り,INTPは自分自身以外の誰との深い関係性も楽しむことが出来ないばかりか,INTPはひねくれて自分を嫌いになり,自分が世界のためにできる唯一の生産的な行為は自殺 top themselves であると考えるところまでいってしまうかもしれない.「私がいなくなっても誰も悲しまない」と最後に考えて.