意志される秩序

真正な現象観の可能性

INTPの内的緊張: TiとNeの相互作用

INTPに関して私が認識してきたことを書き連ねたいと思います.

前置きをしておくと私はいわゆる未統合なINTPであり,それゆえINTPに関する認識も未だ浅薄なものにとどまっている感が否めません.しかしだからこそ,人生の不整合,不調和,不全感に苛まれる私と同程度の発達段階にあるINTPに,人生を打開し,INTPの愛する知的没頭の時間を質量ともにより豊かなものにするための観点を提示・共有できるという面もあるのではないかと思ってのことです.

ここで「未統合な」という概念はあらゆるMBTIパーソナリティタイプに適用できます.各タイプは8つある機能のうちの4つの機能の"ヘビーユーザー"です.そして各タイプは,その4つの機能を統合的に使うことに習熟していくことで人間として成熟する,というのがMBTIタイプダイナミクスの基本的な考え方だったはずです.

さて,未統合なINTPにはどんな問題が生じるのでしょうか.それは他の全てのMBTIパーソナリティタイプと同様,多岐に渡ります.一連の記事で書いていくのは要するに,INTPが発達過程において直面する問題です.

内的緊張: TPの相互作用

自分の内で作用している思考機能がよりよい考えを打ち出そうと分析的な結論づけに駆り立てられているのにもかかわらず,知覚的態度が,状況に対してオープンであれ,と判断を保留し,もうすこし情報収集をしようと引っ張る.『MBTIへのいざない』R.R.ペアマン&S.C.アルブリットン

INTPの主機能である内向的思考 Ti と第2機能である外向的直観 Ne とはうまく協調するときもあれば,心理的エネルギーを競合する関係に陥ることもあります:

それらが健全な協調関係にあるとき,Tiが収束的真実に向かっていく一方で,Neはその真理の反証可能性または精緻化可能性を探索します.この協調関係がINTPを収束的真実へと少しずつ歩ませていくわけです.

Tiが生成した「真理」は,外向的直観によって知覚・収集された情報に適合するかどうかのチェックテストに繰り返しかけられます.特定のチェックテストをパスした「真理」は暫定的には「真理」であるにせよ,その反証可能性はつねに見込まれたまま残ります(これがINTPが"絶対的相対主義者"たる理由のひとつです).それが真理であることの確証を求めてNeによる情報探索は半永久的に反復されます.

あるいは逆に,Neによって収集された情報がTiによって統合され,真理の候補として保持されます.

INTPの携わる真理はえてして抽象的です.この抽象性は,INTPが外向的直観を介して情報を知覚しているがゆえの必然でしょう.Ne と対をなす機能は外向的感覚 Se ですが,Seは物事の細部に着目する機能なのに対して,Neは物事の全体像や各刺激の意味を捉えます.Seユーザーとの対比でいえば,INTP(やその他Neユーザー)は「漠然とした印象世界」を生きているといえます.

INTPの日々の生活で出会うさまざまな感覚刺激は,その具体性において捉えられることはほとんどありません.INTPが気にかけるのは典型的にはそれらの意味,成り立ち,起源,文化的/社会的文脈(=象徴性),抽象的構造,記号的連想,そして関連するすべての分析的概念です.INTP(≒Neユーザー)にとって重要なのは個々の刺激それ自体ではなく,そこから何を抽出(≒知覚)できるかーーーしかも論理性や首尾一貫性を伴ってーーーです.

更に極端な状況においては,INTPは受容する感覚刺激とは全く独立に思索を展開します.これは主機能Tiの内向性ゆえです.例えばINTPが朝にカーテンを開け眩しい日差しに目を細めていたとして,INTPの意識が太陽の輝かしさ,鳥のさえずり,清澄な空気,眠りから覚めてリフレッシュされた身体に向いているとは限りません.

物語性を把握すること,連想することに長けるのは直観機能です.一方で感覚刺激を感覚刺激それ自体として取り込むこと,そして感覚世界の豊かさの広がりにより自由にアクセスできるのは感覚機能の利点であり本分です.それゆえNeユーザの世界認識は,Seユーザに比べてはるかに,刺激の主観的意味付けに左右されやすくなるとともに,感覚刺激それ自体の多様性や楽しさは軽視され捨象される傾向があるでしょう.

MBTIのタイプ判定テストでは大抵,(その妥当性は疑わしいにせよ)各機能の「強弱」も判定されます.Neの優位性が高まれば高まるほど,外的な感覚刺激そのものは"放っておかれ"ます.

Neによって収集された情報はその抽象性ゆえ,広汎な具体的概念を包括するものです.扱う概念の抽象性ーーーこれがINTPに徹底した,長時間に渡る,そして繰り返し論理的かつ批判的に検証される情報収集を要求するものの正体ではないでしょうか: 抽象的概念に関する真理の反証は,具体的概念のそれよりはるかに手間がかかり,複雑で,生半可な注力ではほとんどなにも進展しない程度には困難です.要するにINTPは,その反証可能性をさらい尽くしより洗練された真理へとそれを高めていくためにはほとんど無限の探索=情報収集が必要となるような真理を探し求めているのです.

INTPの徹底性やオープンさが悪く出た場合,NeはTiの導き出した「暫定的真理」に執拗な疑義をかけるようにして機能します.INTPにとって「真理」の真理性を高めることは何にもまして重要なことですが,その徹底性にあまりにも高い優先度を設定すると,Tiの導き出したあらゆる結論はもはや現実に何も働きかけることのない机上の空論へと実質的に成り下がります.というのも,INTPは「真理だけが実践に適用されるべきだ」との考えに高い親和性を示すからです.

INTPは真理に基づいた実践という(しばしば空想的な)理想を追い求めて追い求めて,現実に帰ってこれなくなるかもしれません.そこまでいかずとも,INTPのこの「真理への潔癖さ」は完璧主義 perfectionism や先延ばし癖 procrastination,そしてそれらから派生する鬱や不安といった形で,生活に実害をもたらします.

かくしてINTPは,生活を送っていくための判断を下すために,自身のオープンさを縮減し,どこかで「暫定的真理」を(しぶしぶ!)受け入れる必要性に迫られます.真理の従者であるINTPにとってそれはとても辛く苦しい現実であり,この辛さから逃げたいがためにNeによる探索ーーー判断を保留できる"宙ぶらりん"な状態ーーーの中で,まだ見ぬ可能性,未知と戯れ,より堅固で強力な,実践への適用に耐えうる「真理」に到達するイメージを膨らませます.INTPのオープンさは,悪く言えば放埒さ,規律性のなさです.

とにかく,INTPが知覚機能=Neを用いるのは,自身の「真理」の真理性を徹底的に高め,反証の余地を失くすないしは反証可能性の少なさが許容水準を満たすようにし,自らの内的論理的世界を高度に調和させることに固執したときです.そのときINTPは内的ではなく,外的な情報収集を必要とします.なぜならINTPはその知的誠実さゆえに自身の存在の矮小さを熟知しており,そうであればこそ,自身の「暫定的真理」を反証するか精緻化するような事象が,外界に豊富に存在していると考えるからです.

TiとNeの緊張関係はINTPの悩ましいジレンマそのものです: 考えてばかりいては真理が高まらない(反証可能性の減少を確信できない).しかし探索してばかりいては真理が結晶しない.

INTPの思考の徹底性や客観性はこの内的緊張によってもたらされると言えそうです.