意志される秩序

真正な現象観の可能性

内向的思考と外向的思考の対照と、INTPが追求すべきもの

MBTIの心理機能のうち思考機能である内向的思考(以下 Ti)と外向的思考(以下 Te)の対照について、自分なりの考えをまとめておきたい。

内的整合性 vs 遂行性

TiとTeの違いは、秩序をもたらす場所に現れる: Tiは内的世界に、Teは外的世界に秩序をもたらすための機能である。どちらも思考機能であるので、その機能による構成物に論理性や客観性があるのは共通である。しかしTiとTeはそれぞれ内向性/外向性の機能であり、機能が向かう先は正反対である。

標語的に言えば、Teにとっての秩序は他者から見えるが、Tiにとっての秩序は他者から見えない。さらに言えば、Teのもたらす秩序は、外的世界(=私達の「世界」)のもとでその全体像を把握することが可能であるが、Tiによる秩序の全体像は、真にそれを構成・保守する本人によってしか把握されない。

Tiユーザーが論理的構成物ーーーつまり思考機能の産物ーーーを外界に向けて表現しないわけではない。しかしその構成物はあくまで、Tiの内的論理モデルと整合する構成部分の"現実的変換物"であり、Tiの追求する秩序を媒介し表現するものでこそあれ、Tiの追求する秩序そのものとは異なる。

一方で、Teユーザーが外界に向けて表現する構成物は、まさにその構成物が構成要素となる機能性全体、あるいは論理性全体、に奉仕し調和するものとなっている。

TiユーザーとTeユーザーは、外的秩序(=私達の世界で実効的であるような秩序の総体)に対する態度が異なるのである: Tiユーザーが気にしていることは、外的秩序が自身の持つ内的モデルと整合しているかどうかある(内的整合性の追求)。一方でTeユーザーが気にしていることは、外的秩序そのものがそのものとして、その時々で求められている機能性や論理性を有し、適当な基準を満たしているか否かである(これらをまとめて遂行性と呼びたい)。

もちろん、成熟した人格は主機能の種類に関わらずあらゆる心理機能を行使する傾向にあり、Tiユーザーとて外界の秩序を尊重できるのは言うまでもないことだ。しかしその場合でさえ、あくまでTiユーザーが最終的に秩序づけたいのは内的論理的モデルであり、そのモデルの整合性や一貫性が保たれている限りにおいて、外界にも興味が湧くのである。

今まで述べたことを言い換えると:

  • Tiユーザーにとって(外的)世界は実験場であり、内的モデルの構成が本番であり、そのモデルを洗練させることが目的。
  • Teユーザーにとっては(外的)世界こそが本番であり、思考機能によって遂行性を構成することが目的。

Teにとっての整合性と、Tiにとっての遂行性

Tiユーザーによる構成物がTeユーザーのそれに見えることも、その逆のことも起こりうるだろう。しかしその場合でも、それぞれの最終目標は変わっていないと思われる: Tiは内的整合性を、Teは遂行性をあくまで追求する。

Tiが遂行性を気にすることもあるが、Teがそうするのとは理由が異なる: Tiにとっての遂行性は、あくまでTiの内的モデルの整合性を検証するための媒介に過ぎないように思える。つまりその遂行性が、Tiの内的モデルの整合性を脅かすような性質を持っていたか、あるいは内的モデルがより洗練された体系性を有するものになるために新たに加えられる要素のいち候補に挙がっているか、だろう。

Teが整合性を気にすることもある。しかしそれはあくまで、整合性を検証することで、遂行性が高まると考えることが妥当な場合に限られる。一般に、遂行性を反復するーーーつまり時と状況を変えて再現するーーーために、遂行性に内在する整合性は便利な特徴ではあるが、それで全てが済むというものではない。整合的であっても遂行性は低いものはいくらでもあり、整合的でなくても遂行性が高いものもいくらでもある。一般に、遂行性の構成にあたり重要となってくるのは、抽象的原理によっては演繹されず、一般性の高い命題によっては包摂されないような諸要素の取捨選択と配置である。Teにとって整合性は、あれば望ましいもの以上のものにはなりにくい。

INTPにとってのTi

以上の考察のもとで、主機能としてTiを持つINTPの生き方について考えたい。

Done is better than perfect. という言葉はINTP界隈では合言葉として知られている。INTPなら人生のどこかで、実践することの重要性と、実践せずに思考をこねくり回すこととを天秤にかけたことがあるはずだ。そしてTiが主機能であることは基本的には、思考をこねくり回す方に比重が傾きがちであること、その代償として実践が疎かになることを含意する。

あくまで一般論であるが、残念ながら、Teユーザーにとって成長過程のINTPは、地に足がついていない、その割に何を考えているか定かではない、これといった取り柄のない人間に見える。INTPの最大の長所であるTiの構成物は内的モデルであり、外的遂行性ではない。それは他者には見えない。

INTPが内的モデルを外的構成物として変換し表現した場合、社会人としてのINTPがその可能性を花開かせるための最初の関門を突破したことになる。なぜ関門なのかといえば、この構成物の表現と伝達を担うのは、INTPの劣等機能である外向的感情(Fe)だからである。

劣等機能は人生の中盤から終盤にかけて発達するといわれている。INTPの場合にあてはめていうと、INTPがその最大の取り柄=内的モデル を外部に向けて十全に表現できるようになるのは、人生の中盤から終盤にかけてということなる。

しかし、何もFe機能が未熟なためだけに外部への伝達が遅れるわけではない。そもそもINTPが命がけで構成している内的モデルは、本質的に、社会からみて価値が低いものにならざるを得ないのである(もちろんこれも一般論であり、比較を経たうえの話、つまり相対的な記述に過ぎない、ということを断っておく)。

INTPは遂行性を疎かにするとはいえ、自分の表現物が社会からしてどんな価値や位置づけを持っているかくらいは理解している。INTPが人生序盤に自身の内的モデルを外部へ向けて表現しようとしない主な理由は、そのモデルが洗練途中にあること、そのモデルの表現物が社会にとり価値のないものであることを理解していること、そしてFeが劣等機能であることが、外部への表現のネックになっていること、とまとめられよう。

対照的に、Teユーザーが遂行性を追求する過程というのは、社会規範を達成すること、標準的な価値を実現すること、と実によく調和しうる。卓越したTeユーザーが社会規範に反し、標準的でない価値を実現しようとするとは考えにくい。なぜならそのような遂行性は、Teユーザーが身を置く環境と調和的でなく、調和的でない遂行性をTeユーザーは選ばないからである。Teは自分の外部に秩序を構成する機能である。調和的でない遂行性はそもそも構成が不可能であるか構成が限りなく不可能に近い。ゆえにその構成はTeユーザーに目指されない。

言ってしまえば、社会に必要な遂行性の構築はTeユーザーに任せておけばその大部分は済むのである。ただし、世界がなにも進歩せず、それゆえ必要な機能性の全体が不変なままである、という前提の下で。

INTPと規範性/標準性

遂行性の構築はTiの本分ではない。Tiユーザーは遂行性の構築を追求したところで、一般には、中途半端な成果しか挙げられないであろうことを心に留めておくべきかもしれない。それはTiの機能の本質的な部分に反している。

Tiユーザーは、自分が内的に構成した論理的モデルを介して世界を見る。このモデルの出来次第で、Tiユーザーは価値ある独創性を社会に提供できもすれば、唾棄すべき独断論者としてそっぽを向かれもする。

今まで述べたことからいって、Tiは基本的に標準性や規範性のために機能しない。ゆえに標準的であるがゆえの価値、規範的であるがゆえの価値の実現もTiユーザーの本分ではない。つまりTiユーザーは、世の中で今どんなものが流行っていて、どんなものが求められているのかを参照することはあっても、"その標準性のために"その流行りに乗ることは基本的にない。別の言い方をすれば、Tiユーザーは標準的な方法をとって、標準的な機能性を社会に提供することに価値をあまり見い出せない(その理由の一つとして考えられるのは、そうしたところで、内的モデルの進歩や検証には限定的な意味しかないからだ)。ただし、流行っていることとTiユーザーの内的モデルが部分的な適合をみた結果、流行りに乗ることはあるかもしれない。しかしその場合すらも、あくまでモデルとの適合性がその採用基準なのであって、標準性が顧みられているのではない。

これとは対照的に外向的思考(Te)は、まさに方法・機能性の標準性に着目する。標準的なものにはそうなった合理的な理由があり、平均以上の高い遂行性が期待できるからである。Teの利用に卓越したTeユーザーが何か機能性を実現させたい時、まず標準的な方法を採るのはごく自然なことである。

INTPの目指すべき道

ではTiユーザーが価値あるものを実現するために、どんな道があるのだろうか。

進化論的な観点から言っても、Tiユーザーの本分は探索であり独自性の追求にある。そこで規範性や標準性がたまたま満たされる分にはよいが、基本的に、Tiユーザーは規範性とは縁遠い。また、縁遠い位置を保ってこそともいえる。

標準的でも規範的でもない内的モデルをなぜわざわざ保持するのだろうか?それは外界とは一線を引いて接し、外界に差異をもたらす準備をするためである。「外界へ赴き外界と調和し、外界に機能性を構築することが人間の為すべきことの全てであり、それで何もかも事足りる」とすれば、Teユーザーだけが選別され、Tiユーザーは淘汰されるはずだった。しかし今の所、Tiユーザーも一定の割合で生存している。Tiユーザーは意味なく生み落とされ意味なく生きている訳ではない。

TiユーザーはTeユーザーを模倣することではなく、補完することを志さなければいけない。

Teユーザーの長所である遂行性は、社会のあらゆる場所、あらゆる場面で求められる。未成熟なTeユーザーは、遂行性こそが全てであるという態度をとる(ちょうど、未成熟なTiユーザーが、内的整合性こそが全てであるという態度をとるように)。何が言いたいのかというと、今日の社会情勢は、Tiユーザーに、Teユーザーを模倣するようけしかけてくるということである。様々な条件が複雑に絡み合った結果、そういう傾向性が発現している。

Tiユーザー、そしてTiが主機能であるINTPは、この圧力の中でも独自性を養い、内的モデルを洗練させる必要がある。

その過程で規範性や標準性を様々な用途のために参照してもよいが、規範性と標準性がTeユーザーの本分であるということを忘れてはならない。

こうまとめると鮮烈でいいかもしれない: Tiユーザーの本分そして役割は、規範性の拡張と刷新にある。基本的にTeユーザーの遂行性は非のうちどころがないものだが、一点、その遂行性の成立の前提が硬直的であること(なぜなら規範性はそう簡単には変化しないから)は欠点であり、その欠点は持っていないTiユーザーは、Teユーザーが遂行性の構築にあたり課されている制約の一部(あるいは全部!)を無視した上で、新規な遂行性や規範性の可能性を探索できるのである。これこそ全Tiユーザーが意識的に追求すべきものであり、Tiユーザーの主要な存在意義である。

INTPはTiを主機能として持つから、より強く、このことが当てはまると考えられる。

INTPは自身が持つモデルの存在意義を、最終的には外部へ差し向ける必要性に迫られる。その必要性の度合は、Feの発達と度合いと並行関係にあるだろう。

注意

  • 2つの思考機能の対照について考えていたので、それ以外の心理機能に関する考察がすっぽり抜け落ちている。そのため議論として、以上の論理展開は片落ちどころか、6/8落ちである。今後精緻化していく所存だ。
  • 内的モデルを構築することと、規範性から目を背けることはイコールではない。それらを両立するTiユーザーもいる。しかしそれはどちらかといえばTiユーザーの成熟後の姿であって、Tiユーザーはまず得意な方、すなわち内的モデル、の方に専念することを私はお勧めしたい。それはMBTIの理論が示す道筋でもある。
  • 判断機能としては思考と双璧をなす感情について、基本的には、ここで述べたような論理の流れが思考と同様に適用できると考える。その機能性の本質が判断である点で思考と同じだから。例えば次のように: 外向的感情(Fe)が達成するのは円滑な関係性であるのに対し、内向的感情(Fi)が達成するのは、感情の全次元の探索であり、最終的には、そのうちの一つあるいは複合的な次元の感情が外的に表現される。