意志される秩序

真正な現象観の可能性

法としてのインターネットアーキテクチャ: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

アーキテクチャは法である

現状の世界では、コード作者はますます立法者となりつつある。かれらがインターネットのデフォルトがどうなるかを決定する。プライバシーが保護されるのか。どこまで匿名性が認められるのか。アクセスはどこまで保証されるのか。かれらがその性質を決める。いまはネットのコーディングが行われるしがらみの中で行われているかれらの決定が、ネットのなんたるかを定義する。*1

ネットが従っているアーキテクチャの種類と性質に課される制約は、私達がネット上で出来ることを決定づける。その意味でアーキテクチャは法である。

アーキテクチャの選択の一例として、暗号化技術を挙げる。ネット上では商業の発展に伴い、供給側と需要側がともに、認証機構を利用するインセンティブを増大させてきた。クレジットカード会社は最初、ネット上でクレジットカード番号が使われることをよく思わなかった。オンライン取引のセキュリティを信用できなかったからだ。それが今日では、クレジットカード認証は商業サイトの機能の一部として当たり前に組み込まれている。この間に何があったのだろうか?ーーーSSLプロトコルが開発・実装され、取引情報が暗号化されて安全にやり取りされるようになった。

私達がネット上でできることは、技術的に制約されている。プログラマーに出来ないことはネットユーザーにもできない。そしてプログラマーにも出来ないことがある: 企業勤めのプログラマーには、法的規制が許容(ないしは推奨)しないようなアーキテクチャの実装はできない*2。さて、三段論法だ。結果として、法的規制が許容(ないしは推奨)しないことは、私達ネットユーザーには何一つできない*3

前提として、ネット上のさまざまな機構のアーキテクチャは、政府にとって利便性を高めるようにも低めるようにも実装することができる*4

しかし、ネット上のアーキテクチャは純粋にその機能性や合理性や倫理性、効率性の素晴らしさによって選ばれるわけではない。もちろんそういった観点からの選択圧力は弱くはないにせよ、完全に支配的なわけでもない。

ここでかなり決定的な力を持つのは政府だ。政府は規制を介して、企業が政府にとって高い利便性を持つようなアーキテクチャを実装するよう促すことができる。その規制は、従った場合に企業の利益が増えるように(あるいは従わない場合に企業の利益が減るように)して施行される。例えば、より政府好みのアーキテクチャを実装・利用する企業には税制上の優遇をするとか、反対に、そうでないアーキテクチャの実装・利用には罰金を課すとかだ。

このような流れでアーキテクチャ自然淘汰が進む。一般に、政府にとっての利便性の追求に益するアーキテクチャは繁栄し、それに対立するようなアーキテクチャには強い淘汰圧が働く。

政府がアーキテクチャから得る利便性

では、政府にとっての利便性とはなんだろうか。

前掲書ではその例として、罰則の適用の容易さが挙げられている。ネット上で行われた犯罪行為に罰則を適用するには、それを行った人物の身元を突き止める必要がある。認証機構が実装され広く利用されたネット上では、それはより容易く実現可能になる。

一方で、身元同定が原理的に不可能であるようにネット全体を構築することも技術的に可能である。例えば、TCP/IPプロトコルはそれを利用するクライアントが誰であるかを利用していないので、通信の成立には個人情報が全く必要ない。身元同定が可能かどうかは、プロトコル・スタックに身元情報を扱うプロトコル(または機構)が追加されるか否かによる。

しかし今日のネット空間で、そういうネットを望むユーザーや企業は稀だろう。認証機構がもたらす利便性が双方から知られ、日常的にズブズブに頼っているからである。

他には、大量の効率的データ収集も政府に利するものだろう。統計量として集約できるようなあらゆるデータを政府が持ちたがるのは当然として、機械学習の精度向上に寄与するあらゆるデータ(説明変数の種類は多様に確保しておくに越したことはないだろう)(質的変数も含まれる)、将来的にその意味の大規模解析が可能となるようなあらゆる種類の仔細で現状使いみちの見いだせないデータも、政府が持ちたがらない理由が浮かばない。そのデータの解析を市場に移譲するかどうかはさておき、政府はデータ収集をするインセンティブを持つはずだ。結果として、データ収集をしやすくなるアーキテクチャが実装されやすくなるような規制を政府が施行する蓋然性は高い。

制約に自覚的なネットユーザー

ネット全体はまず政府の規制力に規定され、次に企業の経営能力に規定され、次にプログラマのコーディング能力に規定され、最後に私達個別ネットユーザーの能力に規定されている。"規定"は"制約"とも"統制"とも置き換えられる。

コードに出来ないことはネットユーザーにも出来ない。このあたりの話は記号論言語学や科学哲学などと共通性がある。私達の能力の可能性全体の限界をどうしようもなく定めているものが存在するということ。

インターネット(の全体または一部)にどのようなアーキテクチャを適用するかの選択は、上述のように、どのような規制が敷かれるかと密接な関係があり、更にそれは政治と関係がある。つまり私達ネットユーザーに出来ることを政治が左右してきたし、これからも左右できる。

この点に自覚的であるネットユーザーが多数を占めるか否かが、一方向的にインセンティブを押し付けられたことの帰結に甘んじるのではなく、自分達の理想とする空間の成り立ちや構造を守れるか否かを決めると考える。

もっとも、そういう動きの方向性すらも、ネット空間上の運動である以上はネットのアーキテクチャに規定されている。だから一度インターネットに取り入れられたアーキテクチャの影響は甚大なものになる。それはインターネット自身がどう進化していくのかを決定的に方向づける。

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*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.107

*2:これは原理的可能性の話ではなくもっと現実的な可能性の話だ。まず、今日の成熟した資本主義社会において、金銭的なインセンティブを持たないプログラマーの影響力は無視してよいと個人的には思う(仮に多大な影響力を持つそういうプログラマーが現れたとしても、じきに金銭的な利害関係に包摂されることが目に見えている)。そして、金銭的なインセンティブを持つプログラマーにとって、法的規制に準拠したアーキテクチャを実装しない理由は存在しない(少なくともそのプログラマーが合理的であるならば)。仮に準拠しないアーキテクチャを実装したとしても、その経済的非合理性、そして規制に反しているという反社会性のレッテルゆえに実践空間から淘汰される可能性は高まる。

*3:仮に一時的にできたとしても、それが規制の罰するところであるなら直にできなくなる。更に強めて言うなら、それが規制が奨励していることでないならば直にできなくなる。

*4:前掲書で、そういう技術の例として電話回線が挙げられている。かつての電話回線は一極集中型のネットワークで、これは電話の犯罪利用が疑われた際に会話を盗聴するのに適したアーキテクチャだった。今では電話回線はインターネットアーキテクチャを取り入れ分散型ネットワークとなり、会話の盗聴は困難になった。