意志される秩序

真正な現象観の可能性

法としてのインターネットアーキテクチャ3: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

   

私達を制約する4つの規制

実世界とサイバー空間で共通の「規制」=制約条件は

  1. 社会の規範
  2. 市場
  3. アーキテクチャ

である。*1これらの制約条件は互いに依存しあっていたり打ち消し合ったりして、複雑な相互作用を及ぼし合いつつ、4つ合わさって「規制」として私達の生活を制約している。*2*3

法による間接的な規制の不透明性

法は私達の行動を直接的に制約しつつ、他の3つの制約の構造に介入することで私達の行動を間接的に制約する。

法律は二種類のとてもちがった形で機能している。直接機能しているときには、法律は個人にどうふるまえばいいかを告げ、そのふるまいから人が逸れたら、罰則で脅す。間接的に作用するとき、それは制約のほかの構造を変更しようとねらう。規制者は、こうしたさまざまな技術から、それぞれのリターンーーーその効率性と、それぞれが表現している価値観の両方の点でーーーに基づいて選択を行う。*4

間接的な制約それ自体は悪いものではない、しかし制約の間接性がもたらす不透明性は問題であるとレッシグはいう。

政府は間接的に、実空間の構造を利用して規制を行い、目的を果たそうとしているけれど、ここでもその規制は規制とはわからない。ここで政府は、政治的なコストなしに目的を果たす。明らかに非合法で非難の多い規制と同じ便益を得ておきながら、そんな規制があることさえ認めなくていい。*5

例えば、「物を盗んではならない」という制約条件は、法から直接的にもたらされる。

一方で「生産性を高める」「企業に貢献する」といった制約条件はどうだろうか?それらはどこからやってきたものだろうか?今日でこそそれらは社会規範として、そして市場原理に則った社会人として従うべきものとして認められている。しかしこれらの規制の元を辿れば、そのような規範意識=制約条件が安定化されるような構造を促した、現企業法の立法機関に辿り着く。そもそも立法機関が、特定の社会規範の安定化や市場原理の諸領域への広汎な適用といったことを意図して企業法の体系を作り上げたという事実が、私達が直面している制約条件の前提として存在する。

言い換えれば、私達の直面する制約条件の少なくとも一部は、法によって間接的にもたらされているものである。

間接的な規制は抵抗しづらい

にも関わらず私達はそのことを認識できていない場合がある。私達は企業法や立法機関に規制されているとは考えずに、社会とか、企業とか、市場とか、より身近で深く掘り下げやすい対象に規制されていると考える。

この場合、私達が当該制約条件の責任の所在として想定するのは社会・企業・市場であり、立法機関ではない。そしてそうである以上、非難の矛先となるのもそれらであって、立法機関ではない。

結果として私達の"規制への抵抗"は空を切りがちになる。法が変わらない限りは法が支配する空間の構造も変わらない。構造が変わらないから、既に構造に適応的であるような文化や風土は基本的には維持され続ける。私達を規制するものとしてそれらを対象化し、あーでもないこーでもないと喧々諤々の議論をしても、なかなか実のある変化を作り出すことは難しい。その理由は、それが私達を本当に規制しているものではないのかもしれないから、と考えることができる。*6

ここでの論点はともかく次のことだ: 法による規制を、その規制を媒体している機構に帰属させた場合、すなわち規制の間接性を規制の直接性として取り違えた場合、その規制への抵抗は奏功させづらい。なぜならその規制は本質的には法に帰属するのであって、媒体する機構に帰属するものではなく、そうである以上、媒体する機構に介入することによる改善の限界は、法が変わることによる改善の限界を必ず下回るからである。

結果として政府は、法による規制への抵抗が直接的になされることを回避しつつ、規制することにより得られる便益には与ることができる。しかも規制への抵抗≒非難の矛先となってくれるのは社会・企業・市場であり、政府はそれらを隠れ蓑として用いる。

様々な社会制度が複雑化すればするほど、法による規制の間接性は高まると言えるだろう。様々な制度を迂回した後にその影響が個人へと及ぶようにすることで、私達の"規制への抵抗"の矛先はますます実体を欠くものになっていきがちになる。

アーキテクチャやコードは、間接的な規制を実現するための格好の道具である

話が一般的になったところで再びコードとサイバー空間の話に戻る。

前回前々回の話と繋げると自然と出てくる発想だけれど、法による規制の影響は、様々なアプリケーションソフトを介しても私達に及びうる。

プログラムのコードは、それが表現する機能性を厳格に反復する。コードのこの性質は、アプリケーションやサービスのユーザーのふるまいを厳格に規制することに利用することが可能である、という点が重要だ。

*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.157

*2:同 p.158

*3:簡単に、YouTubeの動画投稿者に課された4つの制約条件を例示してみると:

  1. 法: 著作権や肖像権を侵害する動画をアップロードすると処罰される
  2. 社会規範: 公序良俗に反する規範的でない動画は、登録者の減少や低評価数の増加、批判的なコメントといった形で(社会的な)報いを受ける
  3. 市場: 再生数の伸びなそうな動画よりも、伸びそうな動画の作成に手間をかけるのが合理的である
  4. アーキテクチャ: アカウント登録をしないと動画をアップロードできない。サイズ上限を超えた動画はアップロードできない。規定再生時間を超えないと収益化できない。健全でないメディアはBAN対象となる。YouTubeの定めた動画評価・レコメンドアルゴリズムに従うしかない等

*4:同 p.170

*5:同 p.175

*6:......というのは決めつけが過ぎるかもしれない。というのも、規制が支配する空間の中とはいえ、創意工夫によって劇的な改善をもたらす突破口が発見される可能性を否定することは原理的には不可能だからだ。

法としてのインターネットアーキテクチャ2: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

 

プログラマーは、ネットユーザーに何が出来て何が出来ないかを決める能力=コードを扱っている

コードの構造と、そのコードが可能にする世界とのつながり。コードはサイバー空間をつくりあげる。空間は、人や集団に力を与え、奪う。したがってコードについての選択は、だれが、なにが、そして何よりも、どんな形の生活が力を与えられ、どんなものが力を与えられないのか、という選択でもあるのだ。 *1

私達が利用するWebサービスの機能は、コードを書くことによって実現されている。コードによって表現することの出来ない機能性はそもそもサービスとして実現せず、私達が利用できることもない。コードとは法だ(前回)。

ネットユーザーなら誰もが知っている通り、Webサービス毎にそれを利用するユーザーの特徴は異なっていて、自然に棲み分けがなされている。では、あるWebサービスに居座る人と離れていく人の違いはどこにあるのだろうか?

一般的に、ユーザーは自分にとって有効な機能性を行使する権利と能力を与えてくれるサービスを重用し、頻繁に利用するだろう。

ところで、ユーザーは、Webサービスの支配する空間の中においてのみ、サービスの提供する機能性を行使する事ができる。

更に、この機能性は、プログラマーがサービスを実現しているプログラムのコードを数行変えるだけで全く様変わりしたり、致命的なバグが生じて行使不可能になったりしうる。また、プログラマーがサービスの実装にあたり採用する技術が変更になったり、サービスの仕様が変わったりしていく中で、サービスの提供する機能群の構成は徐々に変化していく。

ユーザーはそのような、時に非本質的な、時に本質的なサービスの機能性の変化に対して、受動的であることしかできない: サービスの利用を辞めるのか、はたまたサービスが新たに提供する機能群に適応するようにして、自分が必要としている機能性を再定義するのか。

私達ネットユーザーがWebサービスの利用を危惧すべきだとすれば、後者の対応を取るようなことをまさに危惧すべきだ。つまりWebサービスの変遷に追随して自身の機能性を再定義することで、Webサービスを使っているのか、Webサービスに使われているのか区別がつかないような状態に陥ることを。

見方によってはそれは"最先端のWebの文化への柔軟な適応"として肯定的に捉えられなくもない。というか、今日のネットユーザーはほぼほぼそんな風に捉えるのかもしれない。ここで私は、Webサービスの機能性に適応的であるべきだとか、適応的でないべきだとか言うつもりはない。しかし、そもそもWebサービスの機能群というのは、ネットユーザーが抗えないような方向から、私達の本当の需要とは独立的かつ恣意的に変更可能であるということには注意を払うべきだと思う。

仮にWebサービスの機能が、私達ネットユーザーにとってわかりづらい形で不利益になるように変更されたとして、それがポッと出のサービスならただ利用中断すればいい。しかし既に利便性が広く評価され、社会の様々な意味での各種階層に深く根付いてしまっているサービス*2なら話は別で、そういう変更を泣く泣く受け容れることが現実的になりうる。

前回の話と絡めつつ話をまとめる。

あるサイバー空間においては、コントロールの主導権が各ネットユーザーにある: 私達ネットユーザーが自分の生活に必要な機能を提供してくれるWebサービスを自由かつ能動的に選択する。必要な機能を提供してくれなくなったサービスの利用は中断し、代替サービスを見つける。

警戒すべき種類のコントロール下に置かれているサイバー空間においては、コントロールの主導権はプログラマー、ひいてはそのプログラマーを統制する経済的・政治的機構にある: 私達ネットユーザーの目に触れ利用できるサービスはそういうコントロールを経て絞り込まれたものである。また当然ながら、それらのサービスの機能性は、そのコントローラー(統制性)が私達ネットユーザーに行使できることを許す機能性のみに限られている。

実際にそのようなコントロールがなされているか否かというのは精密な議論を必要とする問題だ。しかし確かなのは、プログラマーとその上部構造は、ネットユーザーに何が出来て何が出来ないのかを、コードを介して制御することが可能であるし、インセンティブが存在し法が許す限りはそれをしない方がむしろおかしいということである。

サイバー空間の機能性の変更への対抗手段とプログラマーの優位性

コードが持っている原理的可能性の全体像を漠然とでも理解していれば、話は少し変わってくるかもしれない。Webサービスが導入した機能変更の、コードに出来ること全体における位置づけから、その変更の妥当性や本質的意味を洞察することが可能になる。

 

*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.119

*2:それらのサービスは今日、"ユーザーに提供する利便性の向上"という名目で、ユーザーの個別情報を事細かに収集する。情報収集の機能と、実際にユーザーへの利便性の提供の機能とが複雑かつ密接に混じり合って構造化されているので、私達は機能性の行使と引き替えに個別情報を売り渡さざるを得ない。コードがそう書かれている以上それに抗うことは出来ない。

法としてのインターネットアーキテクチャ: ローレンス・レッシグ『CODE and other laws of Cyberspace』

アーキテクチャは法である

現状の世界では、コード作者はますます立法者となりつつある。かれらがインターネットのデフォルトがどうなるかを決定する。プライバシーが保護されるのか。どこまで匿名性が認められるのか。アクセスはどこまで保証されるのか。かれらがその性質を決める。いまはネットのコーディングが行われるしがらみの中で行われているかれらの決定が、ネットのなんたるかを定義する。*1

ネットが従っているアーキテクチャの種類と性質に課される制約は、私達がネット上で出来ることを決定づける。その意味でアーキテクチャは法である。

アーキテクチャの選択の一例として、暗号化技術を挙げる。ネット上では商業の発展に伴い、供給側と需要側がともに、認証機構を利用するインセンティブを増大させてきた。クレジットカード会社は最初、ネット上でクレジットカード番号が使われることをよく思わなかった。オンライン取引のセキュリティを信用できなかったからだ。それが今日では、クレジットカード認証は商業サイトの機能の一部として当たり前に組み込まれている。この間に何があったのだろうか?ーーーSSLプロトコルが開発・実装され、取引情報が暗号化されて安全にやり取りされるようになった。

私達がネット上でできることは、技術的に制約されている。プログラマーに出来ないことはネットユーザーにもできない。そしてプログラマーにも出来ないことがある: 企業勤めのプログラマーには、法的規制が許容(ないしは推奨)しないようなアーキテクチャの実装はできない*2。さて、三段論法だ。結果として、法的規制が許容(ないしは推奨)しないことは、私達ネットユーザーには何一つできない*3

前提として、ネット上のさまざまな機構のアーキテクチャは、政府にとって利便性を高めるようにも低めるようにも実装することができる*4

しかし、ネット上のアーキテクチャは純粋にその機能性や合理性や倫理性、効率性の素晴らしさによって選ばれるわけではない。もちろんそういった観点からの選択圧力は弱くはないにせよ、完全に支配的なわけでもない。

ここでかなり決定的な力を持つのは政府だ。政府は規制を介して、企業が政府にとって高い利便性を持つようなアーキテクチャを実装するよう促すことができる。その規制は、従った場合に企業の利益が増えるように(あるいは従わない場合に企業の利益が減るように)して施行される。例えば、より政府好みのアーキテクチャを実装・利用する企業には税制上の優遇をするとか、反対に、そうでないアーキテクチャの実装・利用には罰金を課すとかだ。

このような流れでアーキテクチャ自然淘汰が進む。一般に、政府にとっての利便性の追求に益するアーキテクチャは繁栄し、それに対立するようなアーキテクチャには強い淘汰圧が働く。

政府がアーキテクチャから得る利便性

では、政府にとっての利便性とはなんだろうか。

前掲書ではその例として、罰則の適用の容易さが挙げられている。ネット上で行われた犯罪行為に罰則を適用するには、それを行った人物の身元を突き止める必要がある。認証機構が実装され広く利用されたネット上では、それはより容易く実現可能になる。

一方で、身元同定が原理的に不可能であるようにネット全体を構築することも技術的に可能である。例えば、TCP/IPプロトコルはそれを利用するクライアントが誰であるかを利用していないので、通信の成立には個人情報が全く必要ない。身元同定が可能かどうかは、プロトコル・スタックに身元情報を扱うプロトコル(または機構)が追加されるか否かによる。

しかし今日のネット空間で、そういうネットを望むユーザーや企業は稀だろう。認証機構がもたらす利便性が双方から知られ、日常的にズブズブに頼っているからである。

他には、大量の効率的データ収集も政府に利するものだろう。統計量として集約できるようなあらゆるデータを政府が持ちたがるのは当然として、機械学習の精度向上に寄与するあらゆるデータ(説明変数の種類は多様に確保しておくに越したことはないだろう)(質的変数も含まれる)、将来的にその意味の大規模解析が可能となるようなあらゆる種類の仔細で現状使いみちの見いだせないデータも、政府が持ちたがらない理由が浮かばない。そのデータの解析を市場に移譲するかどうかはさておき、政府はデータ収集をするインセンティブを持つはずだ。結果として、データ収集をしやすくなるアーキテクチャが実装されやすくなるような規制を政府が施行する蓋然性は高い。

制約に自覚的なネットユーザー

ネット全体はまず政府の規制力に規定され、次に企業の経営能力に規定され、次にプログラマのコーディング能力に規定され、最後に私達個別ネットユーザーの能力に規定されている。"規定"は"制約"とも"統制"とも置き換えられる。

コードに出来ないことはネットユーザーにも出来ない。このあたりの話は記号論言語学や科学哲学などと共通性がある。私達の能力の可能性全体の限界をどうしようもなく定めているものが存在するということ。

インターネット(の全体または一部)にどのようなアーキテクチャを適用するかの選択は、上述のように、どのような規制が敷かれるかと密接な関係があり、更にそれは政治と関係がある。つまり私達ネットユーザーに出来ることを政治が左右してきたし、これからも左右できる。

この点に自覚的であるネットユーザーが多数を占めるか否かが、一方向的にインセンティブを押し付けられたことの帰結に甘んじるのではなく、自分達の理想とする空間の成り立ちや構造を守れるか否かを決めると考える。

もっとも、そういう動きの方向性すらも、ネット空間上の運動である以上はネットのアーキテクチャに規定されている。だから一度インターネットに取り入れられたアーキテクチャの影響は甚大なものになる。それはインターネット自身がどう進化していくのかを決定的に方向づける。

willorder.hatenablog.com

*1:ローレンス・レッシグ: CODE and other laws of Cyberspace. p.107

*2:これは原理的可能性の話ではなくもっと現実的な可能性の話だ。まず、今日の成熟した資本主義社会において、金銭的なインセンティブを持たないプログラマーの影響力は無視してよいと個人的には思う(仮に多大な影響力を持つそういうプログラマーが現れたとしても、じきに金銭的な利害関係に包摂されることが目に見えている)。そして、金銭的なインセンティブを持つプログラマーにとって、法的規制に準拠したアーキテクチャを実装しない理由は存在しない(少なくともそのプログラマーが合理的であるならば)。仮に準拠しないアーキテクチャを実装したとしても、その経済的非合理性、そして規制に反しているという反社会性のレッテルゆえに実践空間から淘汰される可能性は高まる。

*3:仮に一時的にできたとしても、それが規制の罰するところであるなら直にできなくなる。更に強めて言うなら、それが規制が奨励していることでないならば直にできなくなる。

*4:前掲書で、そういう技術の例として電話回線が挙げられている。かつての電話回線は一極集中型のネットワークで、これは電話の犯罪利用が疑われた際に会話を盗聴するのに適したアーキテクチャだった。今では電話回線はインターネットアーキテクチャを取り入れ分散型ネットワークとなり、会話の盗聴は困難になった。